不可侵領域(写真)の断捨離
ここしばらく、私は断捨離を継続している。
本や服、書類など、ある程度大きな量のものはすでに手放した。
このままでも特に問題なく生活できる状態ではあるのだが、
今回は終活を意識して、さらに深い領域までの断捨離を決行している。
それは単なる「片付け」ではなく、これまで自分の中で半ば
不可侵領域になっていたものに触れる作業でもある。
思い出。執着。過去の自分。傷ついた記憶。期待。諦めきれなかった感情。
そういうものが、物の奥に静かに沈殿している。
そして不思議なことに、物を捨てているはずなのに、
実際に剥がれ落ちていくのは「感情」の方だったりする。
今まで全く手つかずだったアルバムの束に、私はとうとう手をかけた。
現在の写真とは違い、昔の写真というものはデータではなかった。
一枚一枚を現像し、アルバムに収め、ページをめくりながら、
その時々の思い出を振り返る。
そんな時代だった。
自分が生まれた頃の写真。成長の過程。学生時代。
社会人になってからの数々の出来事。
仕事関係の仲間との集まり。結婚。プライベートの記録。
そして、幼い頃から続けていたバレエ関連の写真や、海外へ行った時のもの。
それらは単なる「写真」ではなく、人生そのものの断片だった。
そしてそのアルバム達は、クローゼットの一番上の棚を悠々と占領し、
膨大な量と重量で、長年そこに存在し続けていた。
今まで何の疑いもなく、ただそこに保管し続けてきた写真達。
けれど、とうとうそれに手をかける時が来たのだ。
それは単なる整理ではない。
思い出の棚卸しであり、過去への執着との向き合い直しであり、
思い出との距離感を見つめ直す作業でもある。
そして同時に、これまで自分が歩いてきた人生そのものと、
改めて向き合う行為なのだと思う。
私は、その重たいアルバムを一冊ずつ棚から下ろし、
ページをめくりながら、写真の選別を始めた。
まずはざっくりと、アルバムの束全体を見返していく。
そこには、忘れていた景色や、
もう思い出すことすらなかった時間が大量に眠っていた。
そして二周目。
今度は一冊ずつ、写真そのものの選別を始める。
残すのか。手放すのか。
その判断を、一枚一枚に対して下していく作業だった。
写真の選別方法は、こんな感じだ。
フラッシュの当たり方が悪い写真、
ぼやけた写真、画角が良くない写真、
表情が良くない写真は外す。
同じシーンや似たような画角の写真は、一枚だけを残し、あとは外す。
名前が思い出せない人や、何の集まりだったかも曖昧な飲み会の写真は外す。
あまり良い思い出ではないもの、今の自分にとって残す必要がないと感じるものは外す。
ルールは、おおよそこんな感じだ。
以前の私は、よほどの失敗写真でない限り、
時系列に沿って写真をすべてアルバムに収めていた。
そうすることで、その頃の空気感や出来事を、
より鮮明に、より細かく思い出すことができたからだ。
アルバムは、単なる写真集ではなく、「記憶の装置」だった。
けれど今回、そこに「選別」という作業を加えたことで、
アルバムの性質が少し変わり始めた。
記録のための装置だったものが、まるで映画のエンドロールのように、
人生のハイライトシーンだけを残したものへと変化していくのだ。
長く生きてくると、その思い出も、人生で辿ってきた軌跡も、
膨大な記憶、膨大な思い出、膨大な写真と共に、次第に収拾がつかなくなっていく。
だから私は、今ここで「記憶の編集」をしようと思う。
思い出すすべてを、残し続けなくてもいいのだ。
大切だったこと。楽しかったこと。
それだけを、未来へ持っていけばいい。
そう思えるようになると、写真というものは、
必ずしも永遠に保管し続けなければならないものではなくなっていく。
時々取り出して、お茶でも飲みながら、気軽に楽しく眺められる。
そのくらい、コンパクトでカジュアルな形でいいのだと思う。
どっしりと重たい分厚いアルバムを、楽しかった思い出や、
本当に大切だったもの達だけを詰め込んだ、
エンドロールのようなハイライトシーン集へと変えてしまう。
そう考えると、写真の断捨離という作業は、俄然楽しくなってくる。
とはいえ、すでに綺麗に完成されたアルバムを間引いていく作業は、なかなか骨が折れる。
あれもこれもと欲張ってしまえば、写真はまったく減らない。
逆に、一枚一枚に立ち止まって悩み始めると、今度は手が止まってしまう。
だから私は、何周も何周も回しながら、少しずつ写真の間引きを行っている。
初日にざっくりと写真を間引き、所々の写真が抜けた状態のアルバムを、
私はまた棚へ戻した。
そして翌日、再びそれを取り出し、もう一度最初からページをめくる。
さらに間引けないか、改めてチェックしていくのだ。
記憶と向き合いながら。その時の感情と向き合いながら。
何周も、何周も、アルバムをめくっていく。
そうして少しずつ写真が間引かれ、本当に大切なものだけが残った頃、
私はそれらをようやく台紙から剥がす。
台紙から剥がした写真は、最初の頃と比べると、大体半分、
もしくは三分の二ほどのボリュームになっている。
それらをゴムで束ね、一旦箱へしまう。
そして、写真が剥がされた重たいアルバムは処分する。
そんな作業を繰り返しながら、私は少しずつアルバムを手放し始めている。
昨日今日の二日間で、六冊のアルバムを処分した。
残るのは、あと五冊とカード式のアルバム。
これらも、あと数日かけて整理していく予定だ。
そして最終的には、すべての写真を無印良品の正方形のファイル型アルバムへ移し替える。
このアルバムは、一冊で二百四十枚ほど収納できる。
結果として、私は分厚いアルバムを廃棄し、写真の枚数を間引きし、
新しい薄くて軽いファイル型のアルバムへ整理し直す、という形に落ち着きそうだ。
現時点での結論としては、私はまだ、「終活」に値するほどの写真整理はできない。
自分の過去を、完全に処分してしまおうとは思えないのだ。
そこには、大切な人達が写っている。
亡くなった家族がいる。
亡くなった動物達がいる。
私はまだ、そういう執着を捨てきれない。
けれど、私は執着のすべてが悪いものだとも思っていない。
自分の人生に関わってくれた大切な人達や、大切だったもの達が、
写真という「記憶装置」を通して、いつでも手の届く場所に存在していてくれること。
それはきっと、私が生きていく上での、大きな活力になっているのだと思う。
そして興味深いことに、こうして過去と向き合い続けていると、
身体にも少しずつ変化が現れてくる。
強い眠気。妙な疲労感。胃や腸の違和感。感情の浮き沈み。
まるで、長年奥に沈殿していたものが、少しずつ表面へ浮かび上がってくるような感覚だ。
特に、写真を大量に手放した夜は酷かった。
激しい腹痛や悪心に襲われ、その後、まるで電池が切れたように、
ぷつりと身体から意識が離れ、死んだように眠ってしまった。
実際に「デトックス」という言葉が正しいのかは分からない。
けれど、過去と向き合うという行為は、思っている以上に、
身体にも大きな影響を与えるものなのかもしれない。
そして同時に、そこには、自分がこれだけはと続けてきた「踊り」の記録もある。
上手ではない。
不格好だし、拙いし、今見ると恥ずかしくなるような写真も沢山ある。
けれど、その踊りの記録は、自分の人生の中で、自分が選び続けてきた道筋そのものなのだ。
だからこそ、私は今日も、明日も、踊ることを選ぶ。
やめずにいられるのだと思う。
今回の写真の断捨離は、完璧に執着を断ち切るものではなかった。
けれど、思い出を選別し、「記録装置」として存在していた写真達を、
人生のハイライトシーンを映し出す、エンドロールのようなアルバムへと変えていく。
そんなきっかけにはなったように思う。
note記事 2026年5月10日より
写真はロシアでお世話になったボリショイアカデミーのバレエ教授陣との思い出の1枚。
大好きで最も尊敬する、キャラクターダンスの教授トルスタヤ先生と。
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