好き嫌いと正しさの違い〜オリンピックを観て思うこと


2026年2月。

イタリアで開催されているミラノ・コルティナ冬季オリンピックは、連日大きな話題となっている。

冬季オリンピックといえば、花形はフィギュアスケート。そして日本が世界に誇るスノーボード。

時差があるにもかかわらず、多くの人が寝不足の目をこすりながら画面に向かい、選手たちの活躍に一喜一憂している。


劇的な逆転、歴史的快挙。

そのたびに私たちは胸を熱くし、惜しみない称賛を送る。

その光景は、確かに美しい。


けれど私は、ときどきその熱狂に、かすかな恐ろしさを感じる。

ある選手が祭り上げられ、神格化されること。

そして、ほんの小さなきっかけから、一斉に批判の矛先が向けられること。


今回、フィギュアスケートのペア競技では、

木原龍一選手と三浦璃来選手が、ペア競技において日本人として初の金メダルという快挙を成し遂げた。

ショートプログラムで出遅れながらも、フリーで世界最高得点を叩き出しての逆転優勝。

逆境を乗り越えて、2人が創り上げた世界は誰もが称えるべき、感動の、圧巻の演技だった。

それにもかかわらず、容姿や姿形への中傷、性格への憶測、過去の映像や記事の掘り起こし。

さらには、関係のない過去のメダリストにまで飛び火し、比較し、断片的に切り取って攻撃し傷つける声まで現れる。


報道されるのは、あくまで一部だ。

切り取られた場面や、誰かの主観的な証言だけで、その人の人格を断定することはできないはずだ。


オリンピックの舞台に立つということは、想像を絶する年月を積み重ねてきたということだ。

極限まで自分を追い込み、結果を出し続け、ようやくたどり着いた場所。

その覚悟に向かって、なぜそこまで無遠慮な言葉を投げられるのだろう。


また、女子シングルでは、

坂本花織選手が団体戦で銀メダル獲得に大きく貢献した。

リンクを大きく使うダイナミックなスケーティングと、のびのびとした表現。

彼女の滑りには、チームを背負う強さと明るさと安定感があった。

私は、坂本花織選手のくったくのない明るい笑顔が大好きだ。あの笑顔には、長年の努力と覚悟を乗り越えてきた人だけが持つ強さと、人懐こい温かさがあるように感じる。

その存在感は、日本チームにとってかけがえのないもので、確かな支えだったはずだ。


それでも、演技とは関係のない容姿への批判や、

「なぜトリプルアクセルに挑戦しないのか」「なぜこれで高得点が出るのか」といった声が相次いでいるのを目にした。

リスクを取るのか、完成度を高めるのか。

その選択は選手それぞれの戦略であり、自分の身体やキャリアと向き合った上での判断だ。

リンクの外から無責任に難易度だけを求めることは簡単だが、その一つ一つの決断の裏には、長年の積み重ねと覚悟がある。


常々、私が思うことがある。


こうした批判の多くは、結局のところ「自分の好み」や「自分の感情」を最優先にしているのではないかということだ。

好みや感情は大切だ。

誰にでもある。

けれど、それはあくまで個人の内側にあるものだ。

自分の好き嫌いが、いつの間にか「正しさ」にすり替わり、

正義であるかのように振りかざされるとき、言葉は簡単に刃になる。


「私はこう感じた」ことと、

「だからあなたは間違っている」は、本来まったく別の話だ。

人間だから、好みはある。

感情もある。

だが、それは正義ではない。


集団の中に入ると、人は強くなる。

「みんなが言っている」という空気は、個人の責任感を薄れさせる。

正義の側に立っているという感覚は、ときに言葉を鋭くする。

熱狂は人を温めもするが、同時に誰かを傷つける力にもなる。

私は、その渦の中で自分がどう在りたいかを考える。


感動するときは、ただ感動する。

称えるときは、ただ称える。

違和感を覚えたら、立ち止まる。

そして何より、自分自身もまた、無意識のうちにその流れに飲み込まれていないかと問い続けたい。


正義という名の安心感に寄りかかり、誰かを簡単に断じていないか。

誰かを持ち上げることも、誰かを引きずり下ろすことも、

同じエネルギーの裏返しなのだとしたら。

せめて私は、そのエネルギーを温かい方向に使いたい。


Bellydance Najm Fukuoka

ベリーダンス ナジュム福岡 -福岡のベリーダンス教室-

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