踊れるということ
本気で何かに挑戦すると、自分の未熟さや基礎の脆さ、踊りの拙さ、
もともとのポテンシャルの低さまで、
いろいろな欠点がいっぺんに見えてくる。
すると、つい何もかも嫌になったり、
できない自分を責めたりしてしまうことがある。
実際、私はついさっきまでそうだった。
エストニアでのチャレンジ。
才能豊かな若いダンサーたちと同じステージに立つことの無謀さ。
そもそも競う段階ですらない自分が、
ここで踊らなければならないことの苦しさ。
場違いなのではないかという、少し申し訳ないような気持ち。
練習を重ねても、
自分の思い描く姿とは大きくかけ離れた、無様な自分。
そんなものと、この半年余り、ずっと向き合ってきた。
だけど今朝、朝練に向かう車の中で、
ほんの一瞬、光が差すように、
ふんわりと感謝の気持ちが湧き上がってきた。
今こうして朝練に向かおうとしていること。
何の不自由もなく、
自分のやりたいことができて、
動きたい時に動けて、練習ができる。
そのこと自体への、身体への感謝だった。
つい忘れてしまう。
こうして身体が自由に動くこと、
やりたいことがやれることは、決して当たり前ではないのだと。
怪我をすることもある。
病気になることもある。
あるいは年齢を重ねて、
思うように身体が動かなくなる日もくる。
そういうことは常に起こりうるし、
いつか必ず自分の身にも降りかかる。
それなのに今、私はこうして朝練に向かう車の中で、
今日の練習のことを考えている。
たとえ思うように上達できなくても、
たとえ不甲斐ない自分がいても、
練習ができること自体が、もう幸せなのかもしれない。
踊りの場へ戻れること。
練習する場所へ向かえること。
それだけで、
私にとっては大きな喜びなのかもしれない。
身体が自由に動くこと。
それは、私が私でいられるための、
かけがえのない土台なのだ。
私はもう、決して若いとは言えない。
一生のうちで踊ることができる時間には、
思っている以上に限りがあるのだと思う。
そんな中で、怪我も病気もなく、
こうして毎日朝練に向かい、大好きな先生から踊りを学べている。
その先生は、世界でもトップクラスのスターダンサーだ。
定期的に出演できる舞台があり、
期限の中で課題に向き合い、
その成果をステージで確かめることができる。
そして、私の踊りを好きだと言ってくださる生徒さんやお客様がいて、
いつも見守り、応援してくださる方々がいる。
こんなにも恵まれた環境にいながら、
できないことばかりに目を向けて、落ち込んでばかりいるわけにはいかない。
私は、もう十分に幸せなのだ。
こうして練習ができる健康な身体があること。
踊れる場所があること。
支えてくださる大切な人たちがいること。
これ以上ないほどに、満たされているのだと、
今しみじみ思う。
さあ、今日も朝練からスタート。
幸せすぎる一日の始まりだ。
※2026年3月18日note記事より
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