内に芽吹き、外に咲く

春、この時期になると、無性に聴きたくなる音楽がある。

雅楽の「春庭花」だ。


けれど私がこの音楽に感じているものは、

実は「春庭花」そのものだけではない。

その前に奏される、双調の音取。


あの響きこそが、

私の中にある“春のはじまり”と深く結びついている。


初めてこの曲を聴いたとき、

私の中に浮かんだのは、土の中の世界だった。


真っ暗な土の中。

まだ何も見えないその場所で、

無数の命が、静かに、しかし確かに動き始めている。

螺旋を描くように、内側からほどけていく力。

上へ、上へと押し上がろうとする気配。


それはまだ、形を持たない。

けれど、確かに存在している。


この感覚は、「春庭花」ではなく、

その前に奏される双調の音取の響きそのものだったのだと思う。


音取―調子を整えるための音。

けれどそこには、すでに生命の気配が満ちている。


まだ見えない春。

けれど確実に始まっている春。

やがてその内側の生命は、地上へと現れる。


私の中に浮かんだのは、

満開の花をたたえた、大きな桜の木だった。

年輪を重ねた一本の桜が、静かにそこに佇んでいる。

枝は大きく横へ広がり、

その先には、無数の花が咲き誇っている。


音が鳴るたびに、

花が、ポン、と弾けるように開く。

ポン、ポン、とやわらかな響きとともに、

花々はまるで歌うように、空へと向かって咲いていく。

そして、ひとしきり咲き誇ったあと、

はらはらと、静かに散っていく。


それは、内にあった命が、

ついに外へと現れた姿。


「春庭花」という楽曲は、

その完成された春のかたちを描いているのだと感じる。


ーこの「春庭花」は、早朝の音だ。

雅楽において「春」は東を示す。

東――光が生まれる方角。

そのはじまりの気配を、この音楽は静かに湛えている。


千年の時を越えて。

はるか千年以上の時を越えて。

現代に生きる私たちへ、春の息吹を伝えてくれる音がある。


雅楽という音楽には、

ただの響きではない、

もっと深い記憶のようなものが宿っている気がする。


桜の花が咲くさま。

そして、散りゆくさま。

満ちて、ほどけて、消えていく――


その一連の流れに美を見出す感覚。

それは今もなお、人々の心の奥で静かに息づいている。


ふと、以前雅楽を習っていたときの先生の言葉を思い出す。


雅楽はもともと、唐楽や高麗楽――

つまり、中国や朝鮮半島で磨かれてきた音楽なのだと。

遠い異国の地で生まれた音が、

長い時をかけて海を渡り、この国へと伝わってきた。

そしてその音は、日本の風土や感性の中で育まれ、

やがて今私たちが耳にする「雅楽」となった。


世界の多くの文明は、

時代の変化とともに文化を更新し続けてきた。

その中で日本は、

外からもたらされたものを受け入れながらも、

それを自国の感性の中で育み、

長い時間をかけて守り、受け継いできた。


雅楽もまた、そのひとつである。

現代では、雅楽を耳にする機会は多くはない。

それでも、この音楽は確かに生き続けている。

私は、この雅楽という音楽が大好きだ。


だいぶ前、

私がバレエを教えている子どもたちとともに、

「越天楽」に合わせて踊る機会をつくったことがある。

そのとき私は、自ら龍笛を手にし、

烏帽子を被り、装束を纏い、演奏した。


雅楽の音に合わせて踊るという体験は、

子どもたちにとっても、観ている人にとっても、

きっと初めてのものだったと思う。


けれどその時間は、不思議と自然で、

どこか懐かしさすら感じられるものだった。


今は、練習場所や仕事の都合で、

雅楽のお稽古に通うことはできていない。

それでもまた、折があれば龍笛を吹きたいと思っている。


この時期になると、なぜか無性に、

双調の音取を吹きたくなる。


土の中で、まだ見えない命が動き出す、あの感覚。

そして「春庭花」を聴くと、

ああ、今年もまた春が来たのだなと、しみじみと感じる。


満開の桜の下で、この音楽を聴くことができたなら――

それはきっと、何ものにも代えがたい時間になるだろう。


内に芽吹くものと、

外に現れるもの。

その両方をあわせて、春なのだと思う。


「春庭花」。

私の、大好きな曲のひとつだ。


あと幾度、私は残りの人生で

春のこの季節を味わうことができるのだろうか。

ふと、想う。


※2026年3月25日 note記事より


Bellydance Najm Fukuoka

ベリーダンス ナジュム福岡 -福岡のベリーダンス教室-

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