練習と向き合う
わたしはここ3年近く、ほぼ毎日ダンス練習を続けている。
以前はイベント前に1週間ほど確認や踊り込みをしていたのだが、今考えるとそれは到底【練習】とは言えないものだった、と理解出来る。
練習とは「技能や学問などが上達するように繰り返して学習すること」。 また「練」という漢字は「固いものを煮て柔らかくする」という意味があり、「習」は鳥が羽ばたく姿から「繰り返し行為」を意味する。
つまり、繰り返し繰り返し絶え間なく行う事が【練習】なのだと思う。イベント前に少し踊り込みをするのは、テスト前に付け焼き刃で慌てて一夜漬け勉強する事と同じで、基礎力や技術の向上にはほぼ繋がらないのではないかと思う。
だけど【付け焼き刃】で練習していた頃は、振付をスムーズに流せれば『出来た』などど甘っちょろい安心感を感じていた。そんな付け焼き刃は本番での余裕に繋がる筈もなく、案の定毎回しょうもない失敗をしたり、納得いかないパフォーマンスにしかならなかった。その場しのぎの練習方法では、その場さえ凌げないのだ。
日頃からコツコツ積み重ね試行錯誤を繰り返さないと本当の意味の成果も出ないし、何がどう良くて、どこをどう改良すべきなのかの学びも無い。ただ踊り終えた安堵感と、『楽しかった』『出来がイマイチで悔しかった』という刹那的な感情に浸るだけで終わるのだ。
だけど踊る事をシンプルに楽しみたいとか、趣味としてみんなとワイワイ踊るのが好き
そんな感じなら、そこまで練習に拘らなくても充分だと思う。練習に対する考え方は人それぞれだし、自分の考えを正当化する気など毛頭無い。趣味でやるなら自分のライフスタイルに合わせて無理なく付き合って行くのが1番だと思う。
ただわたしの場合は踊る事が仕事である上、更に自分と【自分の踊りとトコトン向き合い、限界が来る日まで自分の最高の踊りを探求する】と約束したので、練習から目を背ける事が出来ないし、踊りを探求する事が生きがいになっている。だから日々の練習はやめられない。
練習して、出来るようになって、使いこなせるようになって、極める。
所詮才能も特性も技量もてんで持ち合わせないわたしなので、自分なりのちっぽけな探求にすぎないのは重々承知の上だ。だけど物心ついた時分から唯一、今に至るまで続いているのが【踊る事】なのだ。わたしにとって踊る事だけは、身体が続く限り探求し続けたいと思える唯一無二の事だ。
毎朝5時に起きて、支度をして、スタジオへ向かう。あまり身体が丈夫でないので(あちこちポンコツ)その日の体調に合わせて内容は変わる。ガツガツ踊る日もあれば、ストレッチとパーツ練習のみで終わる日もある。その日『出来る事』を無理なくやる。どんなに眠くても疲れていても体調が悪くてもとりあえずスタジオには行く。言い訳せずに練習に行く事は、絶対に破れない自分との約束だからだ。
毎日の練習の中での小さな気付きは翌朝の練習のモチベーションであり、わたしにとっては日々の生きる糧、一筋の光明なのかもしれない。
最近よく思うのだが、練習と掃除と語学学習は本質がとてもよく似ている。
それについてはまたいずれ、書きたいと思う。
鬼滅の刃より。思わずスクショしたやつ。
漫画にも沢山学びやヒントが詰まっている。
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