エストニアで踊る
コンペ当日の朝、夜中に目が覚め、そのまま朝を迎えた。
完全に眠れたとは言えない。
けれど横になっていても仕方がない。
お湯を沸かそうとケトルのボタンを押す。
反応がない。昨日まで使えていたはずなのに。
緊張している朝に、こういう小さなトラブルはやけに大きく感じる。
一瞬ため息が出たが、私はフロントに電話をした。
拙い英語で事情を伝えると、スタッフが来てくれた。
壊れたケトルを確認し、新しいものを持ってきてくれ、
さらに「ちゃんと動くか確認する」ともう一度ノック。
最後には両手いっぱいのティーバッグとコーヒーまで届けてくれた。
その丁寧さと笑顔に、張り詰めていた心が少し緩む。
温かいお茶が、驚くほど美味しかった。
私はゆっくり準備を始める。
ストレッチをすると、体が思っている以上に硬い。
土踏まずがつり、痛めていた膝裏がうずく。
万全ではない。
でも整えるしかない。
ー12時を過ぎ、メイクを始める。
メイクも審査の一部。
髪型、衣装、アクセサリー、音楽との調和。
昨夜見返した、ダリナが語るコンペへの向き合い方。
舞台に立つ姿勢、審査員や観客への敬意。
完璧でなくてもいい。
誠意だけは欠けさせたくない。
ー3時15分、ホテルを出る。
雨の中、40番のバスに乗る。
窓は泥で曇り、外はよく見えない。
なんとなく、今日の自分の視界のようだと思った。
会場は団地の奥にあった。
ロシアを思わせる建物。16:00会場到着。
クロークにコートとブーツを預け、楽屋へ向かう。
出場者と挨拶を交わす。
「プロ部門の2番目」と伝えると、「応援してる」と言って優しくハグしてくれた。
異国の地で、その優しさが胸に沁みる。
やがて主催者に呼ばれ、舞台へ向かう。
舞台の中央には、ドラムソロチームのメンバーが整列していた。
このチームは、事前にダリナのオンラインレッスン生の中から有志が集まり、振付を覚え、準備してきたメンバーだ。
私もそのレッスン生なので、もちろん声はかかっていた。
けれど今回は、コンペの練習だけで精一杯だったため、事前に丁重に辞退していた。
舞台の中央にダリナが立っていた。
一年ぶりに会うダリナ。
オンラインではずっと繋がっていたけれど、
同じ空間で顔を合わせるのは一年ぶりだ。
彼女は私を見つけると、ぱっと表情を明るくし、
「Oh my dear!」
と名前を呼び、満面の笑みで駆け寄ってきた。
そして、そのまま強くハグしてくれた。
その体温に触れた瞬間、
張り詰めていた何かが、ふっとほどけた。
それから彼女は私の手を引き、メンバーの前へ連れていく。
「This girl came from Japan!」
拍手が起こる。
本来なら、その輪の中に立っていたかもしれない。でも私は、今回はコンペ一本に集中すると決めていた。
やがて本番が近づく。
17:40、靴下とレッグウォーマーを脱ぎ、舞台袖に立つ。
「Professional category Number two. Saori Matsugu.」
自分の名前が響く。
曲が鳴り、細かいステップで舞台へ出る。
ー最初のターン。
得意なはずのターンで、足がもつれる。
何かがおかしい。
頭は冷静なのに、体が思うように動かない。
悪い夢の中のような感覚。
音楽に寄り添うことができない。
音と動きのずれが、肌感覚で気持ち悪さを伝えてくる。
今までで一番ひどい出来だったと思う。
長時間のフライトか。
時差か。
チケットトラブルの消耗か。
それとも、単純に実力か。
理由はわからない。
例え何百回練習でうまくいったとて、たった一回のステージに現れるものが、今の私のすべて。一切の言い訳はきかない。その瞬間に出たものが自分の真の実力なのだ。
私はそう納得した。
思っていたよりも、できていない自分。
そして、世界のレベルの高さ。
簡単には埋められない溝。
でも、それを知るためにここに来た。
悔しさよりも、清々しさがあった。
客席に回り、他の出場者の踊りを見る。
圧倒的な実力。
どのダンサーも強いパーソナリティで、
「わたしはここに居る!!」とステージ上から熱く語りかけ、心を揺さぶってくる。
ハイレベルな闘い、自己表現。
私には足りないものだらけで、
どこか遠い世界の出来事のように俯瞰して観ている自分がいた。
それでも、観客として純粋に、
素晴らしいパフォーマンスの数々に魅了されていた。
その中でも際立って、この人は優勝する、と確信できるダンサーがいた。
赤い衣装で、ドラマチックに、激しく熱くフラメンコフュージョンを踊った黒髪のロシア人ダンサー。
彼女が王冠を手にした。
私は心から彼女の優勝を讃えた。
そして去年ロンドンで一緒のステージで踊ったダンサー達と笑顔でお互いの頑張りを讃え合った。
ーこうして私のエストニアでのチャレンジは幕を閉じた。
不思議と、悔しさや後悔はない。
ただダンスが好き、ダリナが好きという引力に引き寄せられた、様々な国籍のダンサーたち。
ダンスを通して自己表現し、自他ともに尊重し、讃えあう。
日本にいたら感じることのできない、この寛容でおおらかな空気。
この国の、このハイレベルなステージで踊れたこと。
チャレンジを諦めなかったこと。
去年ロンドンで出会ったダンサー達との再会。
楽屋での何気ないやりとり。
全てが私にとって、かけがえのない経験だった。
私は本当に、
こうして不自由な海外に出向いて踊ることが好きなのだ。
今、ここにいる事の悦びをかみしめていた。
雪道を歩き、バスでホテルに戻る。
エストニアの夜の景色。
霧、溶けた雪道、温度、色、匂い。
忘れられない景色になる。
帰り着き、どうしても今の気持ちを伝えたくて、ダリナにメールを書く。
ここまでの道のり。
今日感じたこと。
彼女の教えの答え合わせができたこと。
そして、言葉にできない感謝。
ー送信。
…その瞬間、糸が切れた。
私は倒れ込むように眠りに落ちた
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