3月回顧(марта 2026)
3月。
この1ヶ月を思い返すと、
どこかぼんやりと霞がかかったような、はっきりしない時間だった。
色で例えるなら、光の当たらないグレー。
冷たくもなく、暗すぎるわけでもないけれど、
どこか鈍く沈んだ陰鬱な色。
何か大きな不幸があったわけではない。
我慢ができない程特別に嫌な出来事が起きたわけでもない。
それなのに、
人間関係や、自分の周りの細々とした出来事、
体調、気分―
そういったものが少しずつ絡まり合って、静かに混沌としていた。
そして何より、
光が差し込む瞬間を、あまり感じることができなかった。
天気も安定せず、寒かったり暑かったり、寒暖差の激しい日が続いた。
春先のあの肌寒さが苦手な私にとっては、
身体的にもかなり堪える季節だ。
気温や気圧の変化は、頭痛を引き起こし、
身体の芯を冷やし、メンタルにも影響してくる。
そういう状態だからこそ、
本来なら気にも留めないような些細なことが、
やけに重たく感じたり、不快に思えたりする。
まるで、肌の感覚だけが嫌な方向に研ぎ澄まされてしまったような―
そんな日々だった。
また、春は別れの季節でもある。
それ自体は自然なことで、避けられないものだと分かっていても、
やはり寂しさや喪失感を覚える瞬間は多かった。
体力的にも削られ、精神的にも消耗していく中で、
それでもなんとか上に向かおうと、もがいている自分がいたように思う。
去年の3月に比べて、今年は桜の開花も遅く、
寒暖差も激しく、天気の悪い日も多かったように思う。
殆ど毎日、気圧による頭痛に悩まされ、薬が手放せなかった。
去年の3月の終わり頃は、天気も良く、あちこちに桜を見に出かけていた。
桜やミモザ、春の花々に触れることで心が癒され、
訪れた春に、心の奥底からふんわりとほどけていくような、
柔らかい喜びを感じていた。
けれど今年は、
エストニアから帰国してからというもの、
どこかこの日本の春の肌寒さに、
じわじわと蝕まれているような感覚があった。
自分の仕事や、踊りの方向性を見直す時期でもあった。
仕事の仕方や考え方、人との接し方―。
さまざまなことについて考え込み、立ち止まる時間が多かった。
本来であれば、それは必要なアップデートの時間でもある。
けれど、身体やメンタルが弱っているときにそれを行うのは、
思っている以上に負担が大きい。
だからだろうか。
3月は、私にとってとてもしんどい1ヶ月だった。
4月に入れば、少しは流れが変わるかもしれない。
そう思っていたけれど、
雨、肌寒さ、気圧、頭痛。
そして細々とした面倒な出来事が重なり、
気持ちはまだ、上向きになりきれずにいる。
今朝も、雨だった。
霧のように細かい雨が道路を濡らし、
朝練に向かう道は、どこか憂鬱な色をしていた。
気がつけば、桜は八分咲きから満開へと移り変わっていた。
それでも私は、まだそれを見に行けていない。
すっきりとしない天気と、
どこか晴れきらない自分の気持ち。寝起きからの頭痛。
そして、どうしても浮かんでしまう、去年との違い。
今年は、どうしてこんなにも違うのだろう。
そんな思いが重なって、
私はまだ、春の訪れを心から喜ぶことができずにいる。
だけど、いつまでもこんな鬱々とした気持ちでいるわけにはいかない。
このあたりで、なんとか停滞から抜け出して、
心から春の訪れや、花々の共演を、素直に嬉しいと思えるような、
そんな感覚を取り戻したい。
4月29日には、毎年恒例のイベントステージへの出演も控えている。
そこに照準を合わせて、踊りの面でも、
土台の組み換えを進めていかなければならない。
思えば、3月は、
落ちるところまで落ちた1ヶ月だったのかもしれない。
だとしたら―
もう、あとは上がるだけだ。
このあたりでしっかりと切り替えて、
少しずつでも、浮上していけたらいいと思う。
まだ心は完全には晴れていないけれど、
踊っている瞬間だけは、確かに何かがほどけていく。
今朝の練習で、以前とは違う小さな何かを拾うことができた。
その小さな変化を頼りに、
明日はもう少しだけ、前に進んでみようと思う。
※2026年4月2日 note記事より
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