無駄を省くこと、削ぎ落とすこと
私はシンプルなものが好きだ。
服にしても、家具にしても、ごくごくシンプルで
無駄な装飾のないものに惹かれる。
人間関係においても、考え方においても、
できるだけシンプルでありたいと常々思っている。
だけど、踊りの練習をしていて、
今朝ふと気づいたことがあった。
今、私は基礎の見直しの真っ最中だ。
長年こびりついてしまった癖—
おかしな間の取り方、曖昧な手の動き、不自然な顔のつけ方。
そういったものを一つひとつ削ぎ落とし、正しい型の中で制御していく。
そんな作業を、毎日コツコツと続けている。
口で言うのは簡単だけれど、
これは本当に地味で、そして難しい。
なぜなら、シンプルにするということは、
ただ削ることではないからだ。
余計なものを削ぎ落としたその先に、
誤魔化しのきかない“本質”だけが残る。
そこには逃げ場がない。
自分の未熟さも、癖も、
すべてがそのまま露わになる。
だからこそ、シンプルは美しいけれど、
同時にとても厳しい。
無駄を省くこと、削ぎ落とすこと。
それは、シンプルにするということと確かに通じている。
なのに、なぜ私はこんなにも無駄な動きが多いのだろう。
なぜ、もっともっと動こうとしてしまうのだろう。
それはもしかすると、
自分の本質に反したことを、
長年続けてきたということなのではないだろうか。
シンプルが好き。
そのはずの私が、
なぜこんなにも音の中で動き続けてしまうのか。
ウニョウニョと、絶え間なく。
落ち着きがなく、空白もなく、ノイズだらけの踊り。
何かを足せば良くなる気がして、
埋めれば埋めるほど、遠ざかっていく。
気がつけば、自分で自分の踊りがわからなくなっていた。
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過度な音楽への感情移入も、また大きなノイズなのだと思う。
深く感じようとすればするほど、
もっと表現しなければと体が反応してしまう。
だがそれは、音楽をなぞっているのではなく、
自分の内側を過剰に垂れ流しているだけなのかもしれない。
感情移入しすぎると、
歌い手のキャパシティを超えてしまう。
本来そこにあるはずの余白や呼吸を無視して、
自分の感情で埋め尽くしてしまう。
それは表現ではなく、ただのノイズだ。
もちろん、音楽に対して自分の心がどう感じるかは大切だ。
だが、そこに過度な演出や感情が加われば、
それもまたノイズになってしまう。
これまで私は、感じるままに音楽に感情を乗せようとしてきた。
それが表現だと信じていた。
だが、その結果として、
余計な動きや不必要な間を生み出し、
ノイズを増やしていただけだったのではないだろうか。
今日、そのことに気づいて、
私は一度、曲への感情移入をやめてみることにした。
代わりに、音楽そのものを、
そして歌い手の声の緩急や流れを、
俯瞰的に捉えようと試み始めた。
すると、自分がいかに無駄に動き回っていたのかが、
はっきりと見えてきた。
本来、そこに動きは必要なかった。
本来、そこには“間”があった。
それを私は、自分の感情で埋め尽くしていたのだ。
なぜ私の踊りは、こんなにも取り留めがなく、
ぐにょぐにょと、とっ散らかって見えてしまうのか。
その理由が、今日、ほんの少しだけわかった気がする。
今日からは、
自分が好きな「シンプルであること」、
無駄を省くこと、整っていることを、
踊りの中でも目指していこうと思う。
足すのではなく、削ぐこと。
埋めるのではなく、残すこと。
それこそが、鍵なのかもしれない.
2026年4月13日 note記事より
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